死には遠い命を抱いて 5

 小説リハビリの多分三月上旬くらいの話5。青薔薇の話が少し関係します。
※青薔薇の事件が切欠でひどい目に遭っているモブがいることが判明します。それとは関係なくひどいことをしているモブがいることも判明します。九雀はいません。
※何に注意してもらえばいいのか最早ほんとにわからないので何か問題があれば教えてください……。
 

 
 
 

 ――またやりやがったあのクソアマ。
 支部長室と書かれた部屋に自分のカードキーを翳して、中へ入る。ノックはしなかった。する必要はないと部屋の主から通達されているからだ。自分の部屋に入る必要があるということは、君たちがそう判断したからということだろうから、それを信用するよ。とは、部屋の主の談だ。おかげで、部長クラスは全員、自分のカードでこの部屋へと入る権限を持っている。ロックする権限も。
 そういうわけであるから、木戸陽は、部屋に自分のカードでロックをかけると、ツカツカと部屋の真ん中に陣取るオフィスデスクの近くまで歩いていき、その正面で背筋を伸ばして――
「恐れ入ります菊池支部長、あの女を殺しに行ってもいいでしょうか?」
 ――可愛らしいクマのぬいぐるみを睨みながらそう言った。部屋の主である支部長、菊池紅鵜は、いつもながら、支部の中にはいない。
 美潮香純。IT企業に偽装した組織支部――柳という男が支部長の――に勤める職員である彼女が、陽預かる『開発部』のセキュリティをぶち抜いてデータを散々に荒らして好き放題持って行ったのは、真澄が加入し、直後に志弦が精神不安定で療養することとなった、あの七月からしばらく過ぎた頃のことであった。忘れもしない十月二十日。それが『初めて』のことだ。その時に陽は、言葉に出来ない程怒り狂い、若者の言葉で言えば『ブチギレ』て、『次やったら殺すぞ』と書いたビジネスメールを送ったのだが、効果はなかったようだ。
「被害状況はお手元に送信した資料をご覧ください。個人単位の交戦許可でも構いません。先方との交渉許可でも。いずれかをいただければ私が今すぐあの女を殺しに行きます」
 セキュリティに穴を開けただけならまだいい。データの盗難についても、ものによっては交渉に使えただろう。
 だが、『セキュリティを完全に引っ掻き回して麻痺させた上で穴を開け、データを好き勝手に覗いて、【真澄の事件のデータ】を含む、複数の薬剤データを盗んでいった』となると話は違う。それは即ち、真澄が開発した例の薬にも関与するデータであり、『二度と誰にも見せてはならないもの』だった。陽の部署のセキュリティが最も強固であるために――陽の部署の仕事が『開発』であるためだ。教団やその他敵対組織に開発データが奪われないよう、呪術防壁や魔術防壁まで張っていた!――置いてあったのである。それをあの美潮香純は、子供が邪魔な包装紙を破り捨てるようにセキュリティをめちゃくちゃにして、データをコピーして帰っていった。包装紙は『完璧に繋ぎ合わされて』返されていた。その間、僅か十三秒。狂人の所業だったし、この支部の職員では誰も止められなかった。
 夜中電話で叩き起こされ、セキュリティ部署からその話を聞いて、卒倒するかと思った。悪い夢だと思ったくらいだ。美潮本人から返ってきたメールによると、陽たちのものよりも強固なセキュリティで守ってから破ったので安心してください!とのことであったが、そういう問題ではまったくないのだということをあの女はわかっていなかった。
 そして、本日が二度目である。
 盗まれたのは前回のデータに対応する解毒薬の類と、外科的に摘出された脳に関する――例えば保管や維持について、それから『記憶の抽出』など――ものが複数。そこに何の関連性があるのかは調査中だが、とりあえず陽は、警告通りあの美潮香純というクソサイボーグ女を殺そうと思って支部長室へと赴いたのだった。
「『二度目があれば』許可はいただけると前回伺いましたが、よろしいですね?」
 五十も超えてこんなにも怒れることがあるのかと自分でもいっそ面白くなりながら、ともすれば引きつりそうになる唇でクマに語る。と、クマが、『はい、もらった資料を、今読んでいます……少しだけ待ってください……』と声を出した。リボンの影に小型のスピーカーがついているのだ。因みに、マイクは耳の奥にある。
『そうだねえ、ひどいねえ……うん……大人がやることじゃないですね……』
 クマが、黒くつやつやした目の形をしたカメラで、陽を見ている。
『まあね……僕の方からの許可は、ね……すぐにでも出せるよ……被害がひどいから……』
 ぬいぐるみから聞こえてくるのは、しゃがれた男の声である――尤も、菊池が本当に男性であるのかどうか、陽は知らなかったが。何しろここへ配属されて以来、一度もぬいぐるみ姿以外の支部長を見たことがない。ただその声は、病人のそれだ、と陽は感じる。喋り口がゆっくりとして途切れ途切れなのも、体力がないからなのだろうと勝手に推測していた――それが正しいのかは知らないが。詳細を教えてもらえたことはない。
『許可自体はすぐ出せる、ん……だけど……』
「だけど、なんです?」
『あの子ね……今、どうやら、邪神と交信してるみたいなので……迂闊に手を出したくないんだよね……』
(――……、)
 完全に理解が追いつかなかった。
「恐れ入ります、菊池支部長。もう一度お願いできますか?」
『いい……です、よ。あの、美潮香純ねえ……邪神と交信中なんだ……いや、交渉? 違うな、もっと一方的に近いし、干渉の方が正しいのかな……教唆と言ってもいいのか……』
 聞き間違いではなかった。
「そ、それは、どういう……?」
『うん、元々、美潮香純というのはUDCオブジェクトでもある人間なんだけれど』
「菊池支部長、申し訳ございません、もう少し順を追ってご説明いただけると……」
『いや……ごめんね、これが、ほんとに最初なんです……』
 菊池によると、こういう話であった。彼女は元々、UDCオブジェクトに寄生されて教団のシンボル――司祭と呼ばれていたらしい――と化していた少女だった。少女は幼い頃に周囲の大人の手でUDCオブジェクトを植えつけられて以来、十年以上寄生され続け、人間としての機能の一切を失ってしまっていた。この時点で彼女は既に、『人間だった頃の記憶を持つだけのUDCオブジェクト』と大差がなかった――否、『そのもの』であった。それを拾ったのが、柳の支部だ。教団の制圧を行う際に偶然見つけたそれが、調査の結果、『不特定多数の邪神と交信し続け、場合によっては人類が理解できる言語で外部に発信する』という性質のオブジェクトであることを知った柳は、『美潮香純』という人格と『UDCオブジェクト』を利用して、『邪神の力を行使できないか』と考えた。
 結果として――『美潮香純』は、少女の頃から殆ど成長していないままの人格を、機械の器へと移動させられた。その時にUDCオブジェクトとの関係性が切れてしまえばよかったのにね、とは、菊池の言だった。だが、彼女の肉体に寄生していた、あるいは彼女の肉体そのものでさえあるオブジェクトは、もしかすると『彼女の肉体であるが故に』、彼女の人格に食い込んで離れなかった。そのため――『人間・美潮香純』は、『人間の知性による指向性によって、力の行使について邪神と【交渉】するためのインターフェース』として機能させられることとなった。
 尤も菊池によれば、本当に指向性があるかどうかは疑わしく、おそらく不特定多数の邪神と交信し続けているままだろうと思われるし、彼女は正気に返る時間を得るだけで精一杯か、既に正気を完全に失っているだろう、とのことであった。
 だから美潮香純は、『UDCオブジェクト』でもある『人間』なのだ。
 彼女がどちらであるかは、最早誰にもわからない。
 きっと、本人にさえも。
 そして彼女は、『UDCオブジェクトであるが故に』、『世界を滅ぼそうと動く』。
「……き」
『き?』
「気が、気が狂ってる」
 話を聞いて、陽は眩暈がした。邪神と交渉する? 対峙するだけで発狂する場合さえあるような、あの化物どもと? まともな知性など碌に持っていない者の――否、『人類には理解できないような、狂気的で、超越した知性を持つ』者の方が遥かに多い、あの強靭で気まぐれな怪物どもと!
『木戸君、僕らは、大なり小なり狂ってるよ。あんまり悪く言っちゃ、駄目だ』
「で、ですが」
 それでも正気の沙汰とは思えない――何を考えているんだ、柳という男は。
『だからね、美潮香純は、あの子は、今回は多分、それほど、悪くないんだよ。僕らの被害は確かに、すごいけど……でも、それでも、僕はね……』
 スピーカーの向こうで、しゃがれ声が咳き込んだ。ひどく湿った咳だった。
「大丈夫ですか、菊池支部長」
『ああ、ごめん、大丈夫。歳かなあ……ずっと喋っていると、疲れちゃって……』
 そう言えばこの男は幾つなのだろう。あの名前のない老人よりも年上なのだろうか、年下なのだろうか。
『……エム君よりは流石に年下だよ』
 エム君?と質問するより先に、『あの、葛籠雄君の屋敷を管理してるとこの支部長』と菊池が続けた。エム――M君だろうか。
『あの方の本名をご存知なんですか?』
『知っている、うん……知っている、のかな……預かってはいるね……』
 でもそれは木戸君に関係ないからね、と、菊池があっさり言い放って、陽の疑問を断つ。
『まあ、エム君のことはどうでもよくて……今は、美潮香純のことを話しましょう』
「はい」
『うん、そう、……あの子が、十月に、こっちのセキュリティを勝手に引き千切ってデータ持って行ったじゃない……』
「ええ」
『その時にね……僕も流石に、怒っちゃってさ……柳君に、直接言いに行ったんだよね』
「柳支部長と直接会ったんですか?」
『うん? うん。僕も、肉の体がないわけじゃないからね。柳君は、肉の体以外を軽蔑するひとだから、ちゃんとそれで行きましたよ』
 妙な言い回しだとは思ったが、陽は口を挟まなかった。
『まあそれはともかく……話してみてわかったのは、どうも、柳君は美潮香純がやっていることを、【黙認している】みたいなんだよね……』
 ……これ以上、五十代の繊細で脆弱な肉体に多大な負荷をかけないで欲しい。脳の血管が何本か切れそうだった。健康診断には気を遣っているというのに、これでも。
「も、黙認している……?」
『そう。【最終的に自分の目的に沿う結果が出るなら】、僕たちへの被害も、必要経費というかね……例えば、千人殺して一人救う薬が出来るんだったら千人死んでもいいだろう、って……本気で思ってるみたいだったね……美潮の件は結果が出次第、公式に謝罪はするって』
「……」
『僕は……好きじゃない考えだねえ……』
 陽も、好きではない思想だった。吐き気がする。真澄や志弦の方が、陽はずっとずっと、好きだ。何なら、志弦を精神不安定に追い込んだ葛籠雄九雀の方がまだ――
「……?」
 ふと、木戸は、何か引っかかるものを覚えて、内心で首を捻った。美潮香純は『真澄の事件のデータ』を根こそぎコピーしていった。そこには勿論薬についての内容も含まれていたが、それ以上に、『事件の顛末』についての詳細の方が多かった。薬のデータが欲しいなら、『顛末』は要らない。十三秒でセキュリティをぶち破って目的のものを持ち去る美潮香純が薬のデータ欲しさに全部コピーするとは些か考えにくかった。事実、他の薬は、研究データだけコピーされた形跡――多分、陽たちが被害詳細として作成しやすいよう、わざと形跡を残していたもの――がある。
「美潮が『何か』はわかりましたし、手を出さない方がいいのもわかりましたが……」
『なに?』
「実は菊池支部長の仰る、『エム』支部長と、先日個人的に話をしまして」
『あ、そうなんだ……仲がいいの?』
「いえ、葛籠雄さんの取り扱いについて相談に乗っていただいたんです」
 スピーカーから、くぐもった笑い声が聞こえた。
『それで……どうでしたか? 彼そういうの得意だから……きっといいことが聞けたと思うけれど?』
「ええ、はい、おかげでそこは解決しまして。それはいいんですが」
 実は、最近、当のエム氏からメッセージを受け取っておりまして、と、スマートフォンを取り出すと、該当のものを映してクマの前に差し出す。
 曰く。
『日本にはこちらよりも支部が多くあるということは重々承知していますし、派閥もあるでしょうが、どうにかして、美潮香純さんのメールや国際郵便を止めていただくことは難しいでしょうか。葛籠雄君宛にずっとメールや手紙が届いておりまして、葛籠雄君本人はさして気にしていないようなのですが、周囲の【まだ尋常な】精神を持った職員が不気味がってしまい、徐々に精神の変調を来たしております。私から柳支部長にも打診をしたのですが、片付き次第後ほど謝罪をするとしか返答がなく、ほとほと困り果てています。ブロックしても手を変え品を変え送ってくるので、どうしようもありません。支部長でもない木戸君にメッセージを送るのは筋違いとわかっておりますが、どうか、どこかの支部長などに伝手があればそちらから手を回してもらえないでしょうか。お願いします』。
「……ということでして……」
 自分に支部長を動かすような伝手はなかったし、菊池に伝えるかと聞けばやめて欲しいと言われたので、そのまま話が終わっていたのだが。メッセージを見たクマから、『ングフッ』と喉を詰まらせたような――多分笑ったのだろう――声が聞こえて、『ンふっ、ゴホッ、エム君、直接僕に打診したらいいのに、なんで木戸君に』と菊池が言った。
『というか……これなら、他の支部長にも打診してるだろうに、僕全然知らない……口止めしてるね、いつもながら嫌われてるな、僕、ンフフッ』
 ずっと笑っている。こんなに元気がいい菊池を見るのは初めてだった。実は病人という自分の推測は外れていたかもしれないな、と陽は思った。ンフフフフ、とクマは笑っている。だがすぐに、『そういうことねえ』と言葉が続く。
『真澄のデータを抜いたのも、今回についても、一貫性があったわけだなあ……』
 陽が首を捻れば、菊池からデータが送信されたとスマートフォンに通知が届く。
『多分だけどね……葛籠雄君、今、いないよ……少なくとも、屋敷にはね……』
「え?」
『美潮香純の正気によっては、よくてダルマか、悪いと脳味噌を引っ張り出されて……いやでも、なんでそんなことしようとしてるんだろう……? 主導権が仮面にあるのは美潮香純もわかってる……よね……? それすらわからなくなってる……?』
「ま、待ってください菊池支部長、どういうことです」
『だから……美潮香純の話だよ』
 これも柳君から聞いたんだけれど。
『柳君が美潮香純の計画を考えたのは、葛籠雄君の予知した事件が……きっかけだから』
「――」
『美潮香純が恨みを抱いてもおかしくないし……少し前に、別の支部ですっごい失敗が起きたって……聞いたことない? 村ごと職員がほぼ全滅した……』
「……ああ、知っています」
 隊の中に裏切り者がいた事件だ。
『あれが起きた支部が柳君の支部で』
「はい」
『裏切り者が、柳君の娘で』
「は」
『あれの鎮圧に単身突入させられたのが葛籠雄君で』
「……」
『あの村で、【UDCオブジェクトの自分】を回収した美潮香純と、その葛籠雄君が接触しているんだよね……』
 陽はあの十月二十日を思い出し、そして卒倒しかけた。ついでに、この一連の問題において、責任を追及するのならば、柳支部長になるのではないか、と陽は思った。
『猟兵の予知した邪神の事件を模倣して己のものにしようとする』なんて――邪神を崇める教団のそれと何が違うというのだろうか? 『世界を救う』つもりでやっているのだから、逆に性質が悪い――ここに至って、陽は、美潮香純を殺すよりも先に必要なことがあるなと考え始めていた。美潮香純や柳を殺して済むなら、陽は今すぐにでも殺してみせる。だが、これはそんな単純な話ではない。
「……ど、う、やったら……」
『はい』
「どうやったら……この一連の事件は解決できるんでしょうか……」
『それは……多分、美潮香純次第だねえ……』
「彼女次第、ですか」
『あとは葛籠雄君次第かなあ……でも、彼、今どうなってるんだろう……ちょっと、現地がどうなってるか……調べた方がいいかもね。葛籠雄君が美潮香純を、ちゃんと職員だと認識していて、攻撃してはいけない対象だと思っていたら……多分、油断しちゃうよなあ……』
 屋敷に武器が残っていたら相当まずいよね、と菊池が言う。それから、『あ』と気付いたように漏らした。
『駄目だね……武器とか関係ない。美潮香純の被害詳細見てましたけど……【例の麻酔】と他いくつか麻酔剤のデータを持ち出してるから……どれか一本打たれたら、葛籠雄君は拉致確定だねえ……』
 彼、毒が好きなくせに、毒に耐性ないからなあ。平然と言う菊池に、陽は僅かに苛立つ。猟兵が拉致されているかもしれず、しかもそれを行ったのが組織職員で、支部長は黙認しており、更にその職員は邪神と交信中で――それはつまり、最悪己や葛籠雄を生贄として邪神を降臨させかねないということではないのか。
 柳という男は――本当にこんな計画が上手くいくと思って実行したのか。人の感情の一切を無視した、こんな計画が。
『……慌てたって仕方ないよ。……出来る事がない』
「な――ない、」
『ないんだよ――美潮香純は多分、とっくに【限界を超えている】と思う……第一、彼女には多分、【世界を守りたい】っていう気持ちとか……少しもないと思うんだ……』
「……そうでしょうか」
『考えてみてほしいんだけれど……狂信者の親や、親を狂わせた張本人の教団員たちに……よくわからないまま、UDCオブジェクトを寄生させられて、十年以上、オブジェクトの苗床としてだけ生かされていた子がさ……世界を守りたいとか……世界が好きだとか……言えるかなあ』
「……そんなことになる前に、大切な友人が、いたかもしれないじゃないですか」
『いないよ』
「なぜ断言できるんです」
『柳君が言ってた。美潮香純を【教育】してる時に発覚したそうだけど、彼女、元々、文字も読めなかったんだってさ……簡単な算数もできなくて……ちゃんとご飯を食べる方法も知らなかったから、ずっといじめられてたんだって』
「それが、今は我々のデータを抜き出すまでになっているんですか?」
『そうだよ』
「彼女が『こう』なってから何年です」
『確か、去年の八月以降から』
「馬鹿な!」
『木戸君……あのね……』
 人権を一切考慮しなければ、短期間で何でも『させられる』ようになるんだよ。菊池の声は冷たかった。
『特に美潮香純はサイボーグだからね……逆に簡単だったんじゃないかなあ……』
 僕はね。菊池の言葉。
『僕は、【世界を守りたい】よ。きっとエム君も。エム君のところの……ああ、ええと、入院した、エイミー君だっけ? あの子も。木戸君もそうでしょう。……でもねえ』
 真澄君はどうなのかなあ。志弦君も。
『柳君のお嬢さんも、どうだったのかなあ。教団に寝返るくらいだから……』
「……菊池支部長……」
『ねえ……木戸君』
 呼びかけに、陽は答えられなかった。
『志弦君が、木戸君に拾われた時……なんて言ったか、覚えてるよね……』
「……『なんで赤ん坊まで殺した僕がまだ生きてるんですか?』……」
『偉いねえ、有能だねえ。流石だ……』
 志弦は、教団に誘拐された青年だった。中学の頃だったという。ゲームセンターで遊んだ帰り道のことだ。親友二人と一緒に誘拐され、志弦以外の二人は、教団によってUDC怪物にされた。志弦が怪物にされなかったのは、偶々、準備していた祭具の数が合わなかったから、ただそれだけだったという。さっきまで一緒にリズムゲームやレースゲームで遊んでいたはずの友人たちが、泣き叫びながら、血肉をぶちまけながら、得体の知れない何かに変貌していくその一部始終を志弦は見ていた。それだけなら良かった、と志弦は言った。志弦は逃げたかった、志弦は、ただ『逃げたい』と思った。逃げたら、もしかしたら誰かが友達を元に戻してくれるかも、と思った。自分で元に戻す方法なんてわからなかった、だから志弦は教団員の隙をついて逃げた。陸上部だった志弦は足が速くて――それが悪かったのかもしれない、と少年は言った。
 教団員は、志弦を追いかけさせるのに、先程まで少年の親友だった怪物を使った。
 飛び出した儀式場の外は、森の中だった。
 ――生き延びて逃げ切るのに、中学生の志弦は、親友二人だったものを、殺す他、手段を選べなかった。それも運が良かった――飛び掛かる怪物の喉に、武器として構えていた枝が突き刺さったのだ。それで志弦は助かった。教団員は、それ以上追いかけては来なかった。志弦程度に殺された怪物が、期待外れだったのかもしれない。
 血まみれで泣きながら、志弦は必死に、近くの警察へと逃げ込んだ。志弦が拉致されたのは、県をまたいだ山の中だった。家族は顔をぐしゃぐしゃにして志弦を迎えに来た。自分が殺した、親友二人の家族も。泣きながら「あの子はどうなったの?」と少年に縋る母親たちに、志弦は。
 志弦は……何も言えなかったと言った。
 怪物になったなんて言えなかった。
 自分が殺したなんて言えなかった。
 誘拐された後ばらばらに連れて行かれたからわからない、とだけ、言うしかなかった。
 自分だけ家族に連れられて、風呂に入って、ベッドに入ったのが、たまらなく嫌だったと志弦は泣いた。おばさんたちはもう一生、あいつらには会えない。死体さえ見つからない。だって化物になったから。僕が殺したから。あの訳の分からない連中が、あいつらをあんな風にしたから。僕たちの何が悪かった? ただゲームセンターで遊んだだけだ。それだって夜遅くまで遊んでたわけじゃない。まだ夕方の五時で、陽も高かった。
 理不尽だと思った。なにより、おばさんたちのことを考えると、本当につらかったと志弦は言った。あの人たちは何にもしていなかったはずなのに、どうして、あんな目に逢わなくちゃいけないんだ。あんまり理不尽だ、不条理だ。
 そうして――
 そうして志弦は、『それなら、あいつらにも同じ思いをさせてやる』と決めたのだと言う。
 志弦は木刀を買った。山の名前や所有者などを調べた。拉致されている間に周囲で教団員がこぼしていた何らかの名前や地名、日付、施設を出る前に見た様々な情報。手掛かりにもなるかどうかわからないそれらを、とにかく調べて調べて調べて――とある会社が、教団の偽装であると見抜いたのであった。
 否――偽装でなくても、きっと構わなかったのだろうと志弦は暗い目で言った。なんでもよかった。自分が『そうだ』と思えたのであれば。
 志弦は高校進学に、その会社の近くの高校を選んだ。何故か。
 その会社には、ファミリー向けの社宅としてマンションが用意されていた。そこに住んでいる子供は、その高校へ進学することが多いと調べていたからだ。
 木刀を何度も何度も振るった。気を遣って海へ連れて行ってくれた家族と、砂浜でスイカ割りをした。人の頭を砕く感触はこんなものなのだろうか、なんて思いました、とは志弦の言葉である。
 高校で、社宅に住んでいるという女子と恋仲になれたのは幸運だったと少年は語った。念のため、男子とも友達になった。木刀を持っていても不自然でないよう、剣道部に入った。竹刀の代わりに、木刀をずっと入れていた。
 すべて、『家に上げてもらうため』だった。
 会社が管理しているマンションだからか、セキュリティがしっかりしていた。監視カメラもあったし、ロビーはオートロックだったから、無理矢理押し入ることもできなかった。目立たず侵入したかった――時間を稼ぐために。
 ひとりでも多く、子供を殺すために。
 恋人になった女子にも、友達になった男子にも、家に上げてもらえるようになった。他愛のない話をした。毎日、毎日。土日はずっと木刀を振った。手元が狂わないように。どこの家は赤ちゃんが最近産まれたんだって。そんな話を、右から左へ聞き流していた。廊下やエレベーターの監視カメラに自分が映っていても、不自然に思われないくらい、マンションに入り浸って。
 桜が満開になった高校二年の四月、始業式が終わったあと、クラスが分かれたことを惜しむ女子と一緒に、志弦はマンションへ上げてもらい――
 ――まずはその女子と、その母親を木刀で撲殺した。犯行にはレインコートを着た。返り血が目立って通報が早まると困るので。レインコートを風呂場で洗って鞄へ仕舞い、清々しい気持ちでベランダに出た。鞄の中には、ガムテープとハンマーが入っていた。そのまま、ベランダ伝いに隣の家へ行った。見つかってしまったが、顔見知りだったので、ベランダを開けてくれた。事情を聞かれたので、『玄関口に不審者が立っていて出られない、通報してくれないか』と言えば、すぐに信じて背を向けてくれた。木刀で後ろから殴って殺した。ママ、と言って現れた幼児を、これまた木刀で殴り殺した。レインコートを着忘れたので、結局ブレザーは血塗れになった。もういいか、と思った。ベランダを乗り越えた。ガムテープとハンマーでガラスを割って中に入った。眠っている赤ん坊と、洗濯物を畳む母親がいた。自分に気付くと、悲鳴を上げようとしたので殴った。だが一撃では死なず、声が出せなくなったまま、赤ん坊に這い寄って、守ろうとしたのが滑稽だったと志弦は笑った。その時も笑っていたと思います。笑って、母親の前で赤ん坊に木刀を叩きつけました。顔をくしゃくしゃになるまで潰したので、木刀じゃなくてハンマーだったかもしれません、わかりません。その後、母親の頭も潰しました。そうやってどんどん殺して行って、友達だって言ってくれた男子も、全員殺しました。もうあいつらの名前も思い出せないんです。
 UDC組織に保護された直後の志弦は、泣きながら笑って、そう陽に供述した。結局彼が殺した人数は、女子供のみで三十人余りだった。死体はどれも損傷がひどく、遺族に見せられるような状態ではなかったので、棺桶を釘打ちすることになった。特に赤ん坊は。十六歳の少年が一人でやったとは思えない所業に、職員でさえ絶句した。彼を生かしておくのは人道に悖るのではないか、とも言われた。
 ただ――陽は。
 そういう人間を……安易に殺したくなかった。
 その類の人間にとって、『死こそが救済になり得る』からだ。
 陽は志弦を、真澄を救いたかったわけではない。
 生きて責任を取る必要があるだろうと、『この世で最も嫌悪する自分自身』や、『自身の罪と向き合い続ける地獄』を……味わう必要があるだろうと……思ったのだ。だから陽は、志弦を、真澄を拾った。真澄は単純に優秀だったかというのもあるが。いくら欲に目が眩んでいた狂信者だったとはいえ、会社の上役を全員説得して薬の開発を承諾させ工場を掌握し、自分の目的達成のために人を募って更にそれを完遂した――そんな人間を、みすみす逃してやるほど陽の部署は人員が溢れているわけではなかった。
 それに……志弦は答えた。「こんな世界は滅んで欲しいか」という自分の問いに。
「世界に滅んで欲しいわけじゃない、ただ、僕はあいつらと自分が許せないだけなんです」
 そう、確かに答えたのだ。
 真澄も、目的は『世界の破滅』ではなかった。あの男の目的は、『神を誰かに殺してもらうこと』でしかなかった。
 どれだけ泥沼で足掻いても――それでも『世界の破滅』を望まないのなら。
 憎んで、怒って、叫んで、殴って……膝をついても。
 それさえ薪にできるなら、きっと足掻くことができるのだと陽は思っている。
 そこに、救いの一つさえ落ちていなくても。

 ――どんな形でも、もしかしたら、それは『救い』だったのかもしれない。それを取り上げたのは、我々だ。いつだって我々は、『誰か』の『何か』を『取り上げている』んだ。それを、忘れてはいけない。

 ふ、と自分で言った言葉を思い出して陽は笑った。志弦の救いを取り上げたのは、多分、自分だった。思えば、沢山の『救い』を、自分は取り上げて来た。信ずる者は救われる――その言葉に縋る人間の『救い』だって、どれだけ取り上げて来ただろう。
 それでも……『救い』を全部取り上げられてしまったって。
『救い』を全部取り上げて来た自覚があったとしたって。
(『位牌を欲しがって』生きていけるから――本当に、性質が悪いんだよ)
 それと、加えて言えば。
「……菊池支部長」
『……うん?』
「確かに、菊池支部長は、『世界を守りたい』という気持ちで『世界を守ろうとしている』のかもしれません」
『……木戸君は……違うのかな……?』
「わかりません。あの怪物どもは不愉快なのでぶち殺してやりたいとは思っていますし、柳支部長のやり口には反吐が出ますが」
 自分は世界を守りたいだろうか? わからない。自分に守りたい『もの』はない。家族もペットも恋人も何もかも、一切を、自分は持っていない。そう言う風に生きている。そしてこれからも生きていくだろう。死ぬのは嫌だし、死体が残らないなんて最悪だ。志弦の親友たちのような死に方なぞ絶対にしたくないし、してやるものか。異空間もごめんだ、肺癌で死んだ方がよほどマシだ。
「ただ、少なくとも、『あなたも世界を守りたいんだろう』と決めつけられるのは腹立たしいですね」
 だからあの老人も、この男が嫌いなのだろう。きっと――己のヒロイックを、他人に押し付けて正義面をするから。
 この世にはヒーロー志願者ばかりがいるわけじゃないということをわかっていないから。
 陽も同じ気持ちだった。ただ――ただ、それでも。
「『そう』思っていなければ、『世界』を守ってはいけませんか」
 それでも……自分が、志弦や真澄をはじめとした部下たちのことだけは、どうにか面倒を見てやりたいと思っているのも確かだった。
「世界に滅んで欲しいわけじゃない」と言った、彼らのことを。
 信じてやりたいと思っている。信じて、受け止めてやりたいと思っている。
 憎悪も、激憤も、一切合切の感情は、光になる。陽はそう思っている。
 自身で、それを燃やすことさえできるのなら。
 例えば、『ほんとうのさいわい』なんぞのために、陽は自分を燃やせない。あの少年二人のような人間になんぞ、何度生まれ変わったってなれやしない。それだけは自信を持って言い切れる。きっと志弦も真澄もそうだろう。雨にも負けずもくそくらえだ。
 それでも、陽は、自身を燃やして生きていける。
 死を懇願するような激痛でさえ、火にくべてしまえば、所詮は薪だ。
 明日の自分のために、自分を燃やすことができるなら――それは、『希望』にさえなり得るものだ。たとえ燃え尽きて、焼け果てて、後には焦げた影しか残らないとしても。
 暗い炎の方が――温度だって高いのだから。
「私は、『世界を守りたい』なんて大それたこと考えたことはありませんし、きっとこれからも思わないでしょう。私はそんな人間じゃない」
 そんなヒーローになりたいわけじゃない。なりたいなんて思ったことはない。ただ自分にできることをやってきただけだ、地獄の底で、怪物を殺して、仲間を看取って、空っぽの棺が垣間見せる狂気の虚構に怯えて生きているだけだ。何の因果か、サイエンスになんぞ一切関わったことがなかったのに、いつの間にかこの支部で開発部門の部長なんぞをやらされているが、陽は元々前線出身だ。怪物は腐るほど見たし、狂信者どもだってイカレそうになるくらい見て来た。こんな自分は殺してくれと懇願する人間をわざわざ拾って、部下に加えたことも、志弦が初めてじゃない。
「本当は、『世界なんてどうでもいい』んだと思います、私は。確か葛籠雄さんも似たようなことを言っていたかと。『世界を守りたい』なんてヒロイックな感情、誰もが薪に出来るわけじゃないんですよ、菊池支部長」
 ただ――『わざわざ滅ぼすほど世界が嫌いなわけじゃない』。
 それだけで……陽は、『世界を守ることができる』。
 戦える。
 さて、美潮香純の状況も理解した。彼女がきっと、世界を憎んでいるのだろうことも。
 ならば、この事件を引き起こした美潮香純は、どういう『人間』だろうか。
 柳支部長は。
 ぬいぐるみは沈黙している。陽は続ける。
「美潮香純は、本当に、『恨んでいた』から葛籠雄さんと接触したんでしょうか」
『……どういう、意味だろう……』
「あの老人、そう、あなたの言う『エム』支部長が教えてくれましたけれどもね」
 美潮香純は、葛籠雄さんに相当好意的なんですよ。手紙やメールで、葛籠雄九雀を始めとする、彼の予知した事件を解決した猟兵たちのファンなんだともずっと言っている。特に、例の石膏像ゲームの事件について。
〈らお君、元気ですか。わたしは元気です!〉
〈ちゃんと食べてますか? 食べないと人間は死んでしまうので、ちゃんとご飯を食べてくださいね!〉
〈最近どんな本を読みましたか? わたしは着せ替えがメインのソーシャルゲームに嵌まっちゃって、ずっと遊んでます! ゲームの中の女の子はみんなかわいくてやさしいから好きです!〉
〈同僚にうさぎを飼ってる人がいたので、抱っこさせてもらいました! すごくふわふわであったかくて、毛皮の奥の肉が柔らかくって、すぐ死にそうなところがとっても可愛かったですよ! らお君も抱っこさせてもらうといいです!〉
 回数こそ異常だったが、中身はと言えば、そんな他愛のないものばかりだった。
「もしかしたら、確かに恨んでいたのかもしれません。全部演技だったのかもしれません」
 でも。
「逆に言えば――『UDCオブジェクト』美潮香純にすべてを押し付けて、笑っていたような頭のおかしいやつらから、『人間』美潮香純を救ってくれたのは、葛籠雄さんたちでもあるわけですよ」
『……』
「たとえその後人権が一切ないような扱いをされていたとしたって、柳支部長がそんなバカでも失敗するとわかるような計画を立てていたって、『UDCオブジェクト』でしかなかった美潮香純という『モノ』を、『美潮香純』という『ヒト』として確かにしたのは、間違いなく葛籠雄さんの予知した事件だったんじゃないですか」
 そうだとしたら、多分。クマは黙って聞いている。
「美潮香純がどうにかするしかない、私たちにやれることはないと言いましたね」
『……言ったねえ』
「それは本当なのかもしれませんが、私は、やりたいことが一つありますよ」
『何?』
「本当は顔が変形するまで殴ってやりたいところなんですが」
 さて――話は最初に戻る。こうなれば、巡り巡って辿り着くのはただ一人である。
「一発で構いません。美潮香純が散々好き勝手暴れ回った責任として、柳支部長を殴りたいので、許可をいただけますか?」
 あと、葛籠雄さんの様子を見に行くので、経費で飛行機代と宿泊費を出してください。
 
 
(続く)